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2008年 03月 24日

花粉症と越境汚染

三月に入ってから体調がすぐれない。土砂のような黄砂が降った
その日に熱が出て事務局に行くのをやめ、その後は風邪と花粉症
がないまぜになった混沌とした症状のまま今日に至っている。
ようやくひと月が経って痰がおさまり、仕事にも意欲が出て来た
のだが、あの日、車のボンネットの上に嶋模様を描いて堆積して
いた黄砂を思い出すたびに頭がボーッとしてくる。
僕は大学の四回生(関西では年生ではなく回生と呼ぶ)のときに
花粉症を発症した。ちょうど秋の就職活動がはじまったばかりの
頃だったので、ボーッとした頭を初めてのネクタイ姿でなんとか
カモフラージュして面接に望んだのだった。
それ以来だから、もう三十年近く、この体質と付き合ってきたこ
とになる。アレルゲンテストによれば僕は春秋の花粉(杉やイネ
科の山野草など)をはじめ、ハウスダストにもアレルギー反応を
示すらしいが、真冬の室内外の温度差にも反応するので、ほとん
ど年中鼻を詰まらせている。
四回生の頃は、授業に出るのに下宿アパート(キャピタルビジョ
ンという艶やかな名前の男子専用共同風呂&トイレ&厨房付きア
パートだった)から大きなティッシュボックスを持ってきて机の
上にわざと目立つように置いたものである。そうやって自分が花
粉症であることを執拗にアピールしたわけだ。(今思えばそれに
どんな意味があるのか自分でも解らないのだが・・)
何度もティッシュペーパーでこするので鼻の下の皮は擦り切れて
白く剥げ、詰まった鼻腔からは際限なく透明な水がしたたり落ち、
時にはシイタケの足くらいの大きさに丸めたティッシュペーパー
を両鼻に突っ込んでアルベール・カミューについての講義をボー
ッとした状態で聴講するのだった。
あの頃の僕の救いは何かの本で読んだ「アレルギーは生体が示す
過度の抵抗なので、歳をとると抵抗力も落ちてくるからいずれ治
る」という思込み的情報だったが、一向に治る気配がない。まだ
まだ若いのだと思えば幾分自慢げにもなるが、いや実際に杉花粉
の飛散量がピークを迎える頃にはそんなことなど言ってられない。
そこに着て、最近はこの黄砂である。
都市の発展と砂漠化が中国の黄砂を何万倍にも強大なものにして
いく様を想像するのは僕だけでない。昨今は、断流といってあの
黄河が干上がる現象まで頻繁に見られるのだという。
中国には今から二十年前に行ったことがあるが、北京、南京、上
海と巡り、辿り着いた上海のホテルの前でヒマワリの種を食べ捨
てたかどで市民警察のようなおばちゃんにとっつかまり罰金切符
を切られたことを今も鮮明に記憶している。厳密には僕ではなく
僕らと同行していた旅行者が捨てた種が罰金の対象になったのだ
が、僕ら日本人が小太りのおばちゃんに罰金切符を切られる様子
をグルリと取り囲んで観ていた群衆は、その瞬間に、ガハハハハ
ッという怒濤のような太い笑い声の塊を発したのだった。
中国と言えば、このガハハハハッと自転車の濁流をかき分けて猛
スピードで道をゆくタクシー(僕らが乗ったタクシーはなんとシ
トロエンだった!)を思い起こす。
黄砂は中国上空で様々な窒素酸化物などの大気汚染物質を付着さ
せて日本に飛んでくる。餃子は空を飛ばないからそんな心配は不
要だが、僕の頭の中に浮かんだ黄砂のイメージ画像の上に毒入り
餃子がオーバーラップする。これくらい気にするなよ、ガハハハ
ッ! なんて軟弱な民族だガハハハッ! そんなノイズがイメー
ジ画像には付着している。
ウー、大陸的ダイナミズムに負けてなるものかと島国育ちの頭の
隅で思考するものの、その肝心要の頭がボーッとしていてうまく
機能しない。
地球はひとつながりなんだと思い知らさせる。対岸の火事なんて
あり得ない。
このような環境汚染を越境汚染と言うらしい。かつての高度経済
成長で日本もさんざん自国民を汚染した苦い経験を持つのだから、
その教訓をなんとかうまく伝えたり共有したりできないものか。
ガハハハハッ! そんな手には乗らないよっ!! 市場経済優先
の風潮の中、歴史は繰り返す。
人間が同じ過ちを繰り返すのは、誰にも止められないのか?!
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by cafejien | 2008-03-24 17:07
2008年 03月 06日

春よ来い。

僕の生まれ育った実家の庭の前には田んぼが広がっていた。
田んぼ1反ほどもある家の敷地は、西側が国道に、東側が町道
にそれぞれ十メートルほど接道していて、その十メートルが約
百メートルほど細長く横に伸びた形になっていた。
かなりの長方形だが、家は国道側に建ち、西側には納屋(これ
を僕らはドウジと呼んでいた)と豚小屋が向き合うように建っ
ていた。
午後五時三十分を過ぎると父の運転するホンダ・ライフが突然
すごいスピードで国道側の正面入口から庭に突入してくるのが、
大相撲場所が開かれているときの我が家のお茶の間風景だった。
引戸から僅かな玄関土間で居間につながっていた旧家は、細長
い庭に面し、その庭はイコール父のための車道でもあったので、
ウインドウピクチャーのようなお茶の間風景の額縁の中を父は
勇ましく疾走していくのだった。
勤め先の小学校から猛スピードで帰宅した父は最もテレビが見
やすい定位置に座るやいなやじっと画面の大鵬に見入るのだっ
た。テレビはまだモノクロで、夏は蚊取り線香とハエ取り紙が、
冬は練炭の窒息しそうな怪しい臭いが季節感を醸し出していた。
庭にして車道のような細長い砂利敷の端にはコンクリートブロ
ック塀に寄り添うようにさらにやせ衰えた日本庭園があり、そ
こにニョキっと棲息する楠木にのぼって僕は庭の前に広がる田
んぼを見るのだった。
冬の田んぼはソフトボール場であり、初夏は水盤となり、夏は
緑田となって風に瑞々しくそよぐのだった。
田んぼは我が家の敷地と同じ1反の細長いものが二つ横に連な
り、その間を畦道が走っていた。その畦道は田んぼの泥を上げ
たものだったが、その畦道が行き着く国道も町道もまだ砂利道
だった。昭和三十年代では市内を走る主要道路である国道がま
だ砂利道なのも、そんなに不思議な光景ではなかったのではな
いかと思う。
国道側の家の軒先にはイチジクの樹が茂り、バキュームカーの
運転手がそのよく赤く熟したイチジクの実を欲しがって庭先に
現れ、美人の母に陽に焼けた太い顔でねだると、「あら、よか
ですよお!」と母も熱い声で応えたものだった。
あらゆるものに生気が宿り、明日に向かって向日葵のように華
開く時代だった。
僕は痩せ庭の楠木に登ってゴム銃で雀に狙いをつけ、鋼鉄の玉
を弾いた。銀色の弾丸は唸るように空中を貫き、雀の腹にぐさ
りと突き刺さったように思えた。雀は田んぼにスーと降りてい
ったが、後で不時着したと思われる地点に駆け下りてみると、
雀の影も形もなかった。
僕はゴム銃が得意ではなかった。裏山に年上の友だちと駆け上
がり、ゴム銃を握りしめて小高い草叢に滑り込むように隠れる
瞬間の映像は、今も何の気なしに不意に脳裏に蘇る。あのとき
の春の山の臭いが鼻腔に焼き付いて離れない。
今、庭の先にあるのは家ばかりだ。そこには水田も緑田もソフ
トボール場もない。子供たちはどこで遊ぶのだろう。この場所
はまだ郊外で庭先にメジロもやってくるが、それを射るような
悪童はいないだろうなあ。
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by cafejien | 2008-03-06 23:47