2008年 03月 06日

春よ来い。

僕の生まれ育った実家の庭の前には田んぼが広がっていた。
田んぼ1反ほどもある家の敷地は、西側が国道に、東側が町道
にそれぞれ十メートルほど接道していて、その十メートルが約
百メートルほど細長く横に伸びた形になっていた。
かなりの長方形だが、家は国道側に建ち、西側には納屋(これ
を僕らはドウジと呼んでいた)と豚小屋が向き合うように建っ
ていた。
午後五時三十分を過ぎると父の運転するホンダ・ライフが突然
すごいスピードで国道側の正面入口から庭に突入してくるのが、
大相撲場所が開かれているときの我が家のお茶の間風景だった。
引戸から僅かな玄関土間で居間につながっていた旧家は、細長
い庭に面し、その庭はイコール父のための車道でもあったので、
ウインドウピクチャーのようなお茶の間風景の額縁の中を父は
勇ましく疾走していくのだった。
勤め先の小学校から猛スピードで帰宅した父は最もテレビが見
やすい定位置に座るやいなやじっと画面の大鵬に見入るのだっ
た。テレビはまだモノクロで、夏は蚊取り線香とハエ取り紙が、
冬は練炭の窒息しそうな怪しい臭いが季節感を醸し出していた。
庭にして車道のような細長い砂利敷の端にはコンクリートブロ
ック塀に寄り添うようにさらにやせ衰えた日本庭園があり、そ
こにニョキっと棲息する楠木にのぼって僕は庭の前に広がる田
んぼを見るのだった。
冬の田んぼはソフトボール場であり、初夏は水盤となり、夏は
緑田となって風に瑞々しくそよぐのだった。
田んぼは我が家の敷地と同じ1反の細長いものが二つ横に連な
り、その間を畦道が走っていた。その畦道は田んぼの泥を上げ
たものだったが、その畦道が行き着く国道も町道もまだ砂利道
だった。昭和三十年代では市内を走る主要道路である国道がま
だ砂利道なのも、そんなに不思議な光景ではなかったのではな
いかと思う。
国道側の家の軒先にはイチジクの樹が茂り、バキュームカーの
運転手がそのよく赤く熟したイチジクの実を欲しがって庭先に
現れ、美人の母に陽に焼けた太い顔でねだると、「あら、よか
ですよお!」と母も熱い声で応えたものだった。
あらゆるものに生気が宿り、明日に向かって向日葵のように華
開く時代だった。
僕は痩せ庭の楠木に登ってゴム銃で雀に狙いをつけ、鋼鉄の玉
を弾いた。銀色の弾丸は唸るように空中を貫き、雀の腹にぐさ
りと突き刺さったように思えた。雀は田んぼにスーと降りてい
ったが、後で不時着したと思われる地点に駆け下りてみると、
雀の影も形もなかった。
僕はゴム銃が得意ではなかった。裏山に年上の友だちと駆け上
がり、ゴム銃を握りしめて小高い草叢に滑り込むように隠れる
瞬間の映像は、今も何の気なしに不意に脳裏に蘇る。あのとき
の春の山の臭いが鼻腔に焼き付いて離れない。
今、庭の先にあるのは家ばかりだ。そこには水田も緑田もソフ
トボール場もない。子供たちはどこで遊ぶのだろう。この場所
はまだ郊外で庭先にメジロもやってくるが、それを射るような
悪童はいないだろうなあ。
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by cafejien | 2008-03-06 23:47


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